【瞑想中の雑念は敵か、味方か!?】マインドフルネス「その瞬間に命を懸ける」

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心の中であなたが持つ雑草には、むしろ感謝をするべきです。それはいつしか、あなたの修行を豊かなものにしてくれるものですから。

You should rather be grateful for the weeds you have in your mind, because eventually they will enrich your practice. 

鈴木俊隆(Zen Mind, Beginner’s Mind, 1970)

 

こんにちは!

かちゅーです🐭

今日も皆さんの笑顔に乾杯!!

ということで、大好評いただいている「マインドフルネス」シリーズを今日もあなたにお届けします。

今日のテーマは、瞑想をしたことがある人なら誰もが直面したことがあるであろう「あの」問題への対象方法についてお伝えします。

瞑想あるある「雑念ばっかりで呼吸に集中していられない」


前回のブログでも、瞑想中に居眠りしないための正しい坐禅の姿勢や呼吸法についてはお伝えしました。

しかし、それだけであなたも私も瞑想マスターになれてしまったら、修行の意味があまりないですよね。

実際にはどうしても短時間で意識が呼吸から別のことにそらされてしまい、まともな瞑想にならないという方も多いです。

さらに、ここが坐禅による瞑想の難しいところなのですが、

慣れていない最初の方がきちんと集中できていたりします。

当然といえば当然です。

なぜなら、禅が目指している極意は「初心」にあるからです。

坐禅による瞑想を始めたときのあなたはまさしく初心そのものだったはずです。

しかし・・

修行を重ねれば重ねるほど、坐禅に慣れれば慣れるほど、

初心からは遠ざかってしまいます

だからこそ、常に初心を保つべく瞑想を通して努めなければならないのです。

 

雑念ちゃんとの向き合い方


鈴木老師は、

無理に雑念を払い除ける必要はないといっています。

これは瞑想中に限ったことではありません。

例えばあなたは朝早く起きて仕事の準備をするとき、どんな気持ちになるでしょうか?

あまりいい気持ちがしない人も多いのではないでしょうか?

 

雑念ちゃんの出現

「ちょっと面倒くさいな・・」
「できればもう少し寝ていたかったな・・」

などのように、心の中で雑念ちゃんが元気に登場してくる人もきっとたくさんいると思います。

しかし、禅の教えに準拠するのならば、これらはただの心の波にすぎません。

またこのような心の波に対して、私たちが気に留める必要もないと、鈴木老師はいいます。

むしろ、このような心の雑念には感謝をするべきだというのです。

 

雑念ちゃんは味方

雑念ちゃんも、私たちの修行においてはなくてはならない存在なのです。

無闇に拒絶してはいけません。

雑念ちゃんは私たちの修行をさらに洗練させてくれる、かけがえのない存在です。

そして純粋な心で瞑想に取り組んでいると、いつしか雑念ちゃんが心の栄養となってくれる時が来るといいます。

また、雑念ちゃんは、かまってちゃんなのです。

無理につっぱねると、意地でもあなたに気付いてもらおうとして頑張ってしまいます。

だから、雑念ちゃんも一緒に愛してあげましょう。

おおらかな心で受け入れ、抱きしめてあげれば良いのです。

すると雑念ちゃんの承認欲求も満たされて、穏やかに落ち着いてくれます。

そして最終的に雑念ちゃん含め全てを受け入れた状態で、

常に純粋に物事に取り組めるようになればきっと人生が変わっていることでしょう。

 

二元論から脱却


最終的に全てを受け入れ、禅の修行を治めていくためには、私たちが普段持っている二元的な考え方を取り払わなければいけません。

もし座っている自分の他に、座ろうとして努力している自分がいるのであれば、それは二元的です。

坐禅の姿勢が窮屈に感じられたり、心の中で雑念ちゃんと格闘しているのであれば、それもまた二元的です。

坐禅におけるゴールとは、

ただ座っている状態

です。

悟りを開こうとか、頭が良くなろうとか、そのような気持ちでいると坐禅による瞑想の真髄を経験することはできないといいます。

先日のブログでは、坐禅による瞑想によって脳そのものに変化が現れ、あらゆるパフォーマンスが向上することを紹介いたしましたが、

それを求めていると望ましい効果は得られないということです。

座っている間は、ただ座っている。

走っている時は、ただひたすら走っている。

仕事をしている時は、ただただ仕事に没頭している。

これこそが禅です。

このような状態でその一瞬一瞬を過ごすことができたら、心に確かな平穏がもたらされそうですね。

この境地に行き着くまでには相当の修行を要するでしょうが、

私も毎日毎日の自分磨きに勤しみます!

 

合掌礼拝


実は、坐禅にはもう一つの作法があります。

坐禅を終えたあとは、床に伏して9回礼拝するのです。

これを合掌礼拝といいます。

あなたはご存知でしたでしょうか?

 

合掌礼拝の意味

合掌礼拝はとても真剣な修行です。例えあなたが死を迎えるときでも、合掌礼拝の準備を整えておくべきです。例え、私たちの自己中心的な欲望を取り除くことが不可能であったとしても、私たちはこれをしなければなりません。私たちの本質は、私たちにそれを求めています。

Bowing is a very serious practice. You should be prepared to bow, even in your last moment. Even though it is impossible to get rid of our self-centered desires, we have to do it. Our true nature wants us to. 

鈴木俊隆(Zen Mind, Beginner’s Mind, 1970)

 

合掌礼拝の目的は、自分の身を明け渡すことにあります。

すなわち、自分自身の中にある二元的な考え方を除去するのです。

これができた時、私たちは自分と宇宙が一つになります。

すなわち、二元性を取り払って合掌礼拝するということは、宇宙に対して礼拝しているだけでなく、

私たち自身に対しても礼拝しているということになります。

この心を持てると、雑念ちゃんは手も足も出ないでしょう。

確固たる姿勢が成り立っているのではないでしょうか?

 

死ぬ用意が常にある

死の直前においても合掌礼拝の心を持つためには、壮絶な精神の修行が要求されます。

特に現在の平和に包まれた日本において、この境地まで辿り着ける人はなかなかいないでしょう。

ただ、少なくともかつての日本人は、それほどまでに自分を高めていた民族であったことも事実です。

この辺りについては「武士道」シリーズで割と丁寧に書いたつもりです。

かつての武士たちは、切腹を命じられても、誇り高く礼を尽くして散っていきました。

吉田松陰は打ち首を宣告されながらも、

刑が執行される際に隣いた警護の者に

「ご苦労さま」

と声をかけたといいます。

歴史に新しいところで言えば、若くして日本のために命をとした日の丸特攻隊員たちでしょう。

彼らが出撃直前に書いた家族への手紙は、今でも残っていますが、その文章から伝わる高潔な心には琴線を震わされます。

禅による瞑想も、極めた先には死の恐怖にも動じない、強靭な精神が養われるということでしょうか。

私のような未熟者には想像するにも難いところです・・。

 

最後に


いかがでしたでしょうか。

学ぶって最高に楽しいですよね!

学ぶでことで、あなたの人生は大きく輝き出します

頑張らなくても、大丈夫です。

まずは自分が踏み出せる小さな一歩から

あなたがびっくりするような、衝撃の結末が、待っていますよ!

質問や感想などをコメントでシェアしていただけますと幸いです。

日本人として世界にはばたく人材が増え、グローバル競争の激化が進む現代社会においても日本が高いプレゼンスを発揮できるよう私も全力を尽くします。いずれは世界が一つになり、平和で豊かな社会になるような一助となれば幸いです。

 

 

 

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