おはようございます。かちゅーです🐭
今日はまたまた武士の独特な死生観に関わる部分を抽出してかきます。
「自害と敵討ち(The Institutions of Suicide and Redness)」です。
前回のブログでは武士の克己(self-control)について書きましたが、
特に武士の自害についてはこの強烈な克己心のいく末にある極地ともいえるでしょう。
武士道に関連するその他の記事はこちらからご覧ください。
腹を切る、名誉に死ぬ
新渡戸翁が取り上げているのは、言うまでもなく、「切腹」のことです。
日本人であれば、義務教育で日本史を学びますから、切腹という行為の存在や概念については説明の必要はないでしょう。
大河ドラマなどを見ているとなんとなくお馴染みのシーンにもなっていますが、冷静に考えると信じがたい行為に思えます。
今の時代からすると狂気の沙汰ともいえますが、かつての武士の間ではそれが半ば当たり前のこととして浸透していたようです。
また、武士が切腹によって自らの命を絶っていた理由は、当時の人々は人間の魂がお腹に宿っていると信じていたことに由来します。
「腹を割って話す」
「腹わたを見せあった仲」
「腹の中を探る」
などといった言葉は現在も時折見かけます。
こういった観点も、元来人の霊魂は腹の中に宿っているという思想から発するものであると考えられます。
江戸時代になると、切腹は法的な処罰の一つとして用いられるようになります。
ですが、これは単なる死刑を意味するものではなかったようです。
また、切腹という行為そのものも、単なる自殺を意味するものではありませんでした。
武士にとっての切腹は名誉の死だったのです。
ですから、切腹には特別な作法が用いられていたりもしました。
新渡戸翁によると、志たかい武士にとって天命を全うすることは、むしろ望ましくない最期だったようです。
自らの腹を掻き切り、凄まじい肉体的苦痛に耐えながらも平静を保ち、静かに果てていくという行為は、侍の勇気の証として崇められたのです。
名誉(honor)や忠義(sincerity)のブログでも書きましたが、武士にとっては命よりも大切なものがありました。
それこそが人間としての誇りや気高さであったようです。
ですから、切腹をして立派に果てることがカッコいいこととしてもてはやされたようです。
「無駄死に」の増加、臆病な死
新渡戸翁は著書「武士道」のなかで、基本的に武士道に対して中立、もしくは肯定的な立場で論じています。
しかし、とりわけこの「腹を切り裂くことによる自殺行為」に関しては、主張を慎重に進められています。
現に、名誉を重んずるが故に人の生命が軽視された結果、死に急ぐものたちが多かったようです。
本来武士道の真髄は、人としての高潔な道を歩むことにあります。
そのための生であり、そのための名誉であり、そのための死なのです。
しかしながら残念なことに、どう考えても不合理で無駄な死としか言えないような自殺者がたくさん出てきてしまいました。
人間には、恥を忍んでも生きねばならない時があります。
このことは現代においても同じ倫理観が通用するでしょう。
多少の屈辱や不名誉を受けたからといってさっさと腹を切って死ぬ行為は、武士道の本懐からは外れていました。
徳の高い武士からは、そういった行為も「愚かで貧弱な臆病」とみなされていたようです。
私も武士道の考え方に触れていくと、非常に洗練された美しく、力強い倫理観であると、感嘆させられます。
そのような人間道徳を追求し続けた民族が日本人なのだなと思うと、ご先祖への感謝と畏敬の念が浮かぶとともに、自分も大いにそこから学びたいなと感じます。
ですが、そういったある意味「過激な」思想が浸透しすぎると、命の価値が下がり、無用な死者が増加してしまったということは、悲劇だと思います。
自ら死を選んでなおこの世から「臆病」などと言われることはあまりに悲しい。
死生観をめぐる様々な思想がありますが、武士道の切腹はその究極ともいえるものだったのかも知れません。
敵討ち
生死に関わることについてはもう一つ、「仇討ち」の概念があります。
この点についてはあまり特別な感じもしないですが、簡潔に記して終わりたいと思います。
武士は自分の知り合いが傷つけられたりしたら、それ相応の仇討ちを行うことをよしとしていたようです。
西洋の格言にも「目には目を、歯には歯を。」というものがありますね。
受けた被害に相当するぶんの復讐をすることは、日本や中国を始めとした東洋だけでなく、世界的にも昔から浸透している考え方です。
最近では「復讐が復讐を呼ぶ」といったように、負の連鎖をどこかで阻止することの美徳を主張する声も聞かれます。
「仇討ちをしないものはすなわち不孝であり不忠である」
という考え方と、
「天下太平を目指すのであれば身を裂くような苦しみにも耐えねばならぬ」
という考え方があると思いますが、例によって答えなど存在しないでしょう。
神羅万象は諸行無常ですから、その時その時によって真に歩むべき道は変わります。
ただ、人生の岐路とも呼べる瞬間を迎えた時に、真に人間として歩むべき道を歩むことができる魂を持ち合わせていたいものです。
最後に
いかがでしたでしょうか。
質問や感想などをコメントでシェアしていただけますと幸いです。
日本人として世界にはばたく人材が増え、グローバル競争の激化が進む現代社会においても日本が高いプレゼンスを発揮できるよう私も全力を尽くします。いずれは世界が一つになり、平和で豊かな社会になるような一助となれば幸いです。
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